はいどうもー。まるじです。
まだガリガリ君食べるかパルムにするかクーリッシュにするか迷って消耗してるんですか?
もうそんなあなたはアイスクリーマー買って自分好みのアイスを1日かけて自作してください。
もっとアイスクリームに情熱を傾けて、もっと神経をとがらせて、もっと消耗してアイス食べてください。
『アイス作るのめんどくせーーーっ!けどうめぇなぁーー!ちくしょう!』って言いながらアイス食べてください。オツなものですよ。
ちなみに僕はパピコ派です。(茶色の)
8月6日はめんどくさい。
ところで8月6日って何の日か知ってます??
違います。AKBの選挙ではありません。
そうそう。それ。広島に原爆が落とされた日。

毎年その期間は小学生は絶賛夏休み中。だけど8月6日は必ず登校します。
(調べてないけど、たぶん県内の学校は高確率でそうだと思う。)
で。必ず全員で黙祷すんの。
で。校長先生の長いお話を聞かされて、教室に戻って平和祈念式典のテレビ中継を見る。教室でテレビを見るのは道徳の時間のさわやか三組と平和記念式典くらい。
お話はいいから、とにかく早くプール行きたかった。みんなと公園で遊びたかった。
そんなこんなで中学生に進むと、修学旅行先がなんと長崎だった。
長崎まで行ってまた戦争のお話聞かされて、広島のとは手の上げ方が違う像を見に行く。んで戦争の傷跡が垣間見れる建造物を観て周る。
正直に言う。
『戦争の話ばっかりもうえぇてーーー!』
って内心思ってた。
それよりハウステンボスの滞在時間を長くしろ!ばかやろう!くらいに思ってた。
それだけが原因じゃないんだけど、僕は子供の頃あんまり広島が好きじゃなかった。
家族関係も複雑だったから、東京に出て14年間、妹の結婚式で1度、半日だけ広島に戻ったことがある。14年で半日。それくらい広島には愛着が湧かなかった。。。
認めます。東京で消耗しました。
また後日別記事でいろいろと書こうと思ってるけど、大学には野球推薦で名門校に進学。紆余曲折あって、その後また紆余して曲折して。気づいたら22歳。気づいたら飲食店で働くようになってた。
飲食店の裏側ってやっぱり大変で、とにかく毎日が怒涛のように流れる。いろんな知識や技術を得たかったから多数のお店を転々とした。早くいろいろ覚えたかったから、それはもう必死に働いた。必死にやってたら10年も経ってた。
もう立ち上がることもしんどいくらいに疲れ切った体。当時は昼から朝まで働く昼夜逆転スタイルだったので六本木の泥酔したゾンビみたいな人たちと一緒に始発で帰る。もちろん酔ってないけどゾンビみたいな顔して。
料理はもちろん楽しかったし、スキルもかなり身につけた。
ただね。長いよ。長い。15、6時間厨房で立ちっぱなしフル回転はさすがにキツい。それに会議とか業者さんとの打ち合わせとか。新店の準備とか。バイトが来ねぇだとか。食材が足んねぇだとか。もちろん休日なんて概念すらない。月に何日か休めれば恵まれてる。悪いけど和◯民は飲食業としてみると超優良ホワイト企業だと思う。
もうね。
まるじは疲れたよ。

高級店で働いてた時はみんな有難がって食べてくれるんだけど、ほとんどのお店(高からず安からず)の場合、繁華街に行けば行くほど、会食では会話に花が咲いちゃって誰も料理に手をつけない。
場が盛り上がってるからそれはそれでいいんだけど、朝早く起きて仕込んで一生懸命作った料理がほとんど手も付けられずにゴミ箱にブチ込まれる光景を何度も何度も見てきた。
そんなある日の夏の朝。帰ってきてテレビを付けると、あの忌まわしき平和記念式典の中継をやってた。疲れてたのか眠かったのか分からないけど、なぜか地元の島の原風景が頭の中をブワーーーーっと駆け巡った。青い海と山。新鮮な魚介類。緑々しい畑。とにかく子供ながらに夕日が綺麗だったことは鮮烈に覚えてる。その記憶が一気に脳内に溢れた。気づいたら泣いてた。

決めて断つ。
もうね。決めた。地元に帰る。
けど地元に家族はもういない。親父は死んだらしいし、母親は違う町に引っ越したらしい。っていうか戸籍上には知らない人が僕の母親として登記されている。あんた誰やねん。あと妹には子供がいるらしい。噂で聞いた。それぐらい連絡なんて取ったことがない。
そんなことはどうでもいい。僕には波の音が必要だった。山の風と海の風が必要だった。
その島で採れた最高の食材をもっと知ってもらいたい。もっと喜んでくれる人に届けたい。
僕じゃないとできない表現をしたい。
そんな時、小学校の同級生と新宿で飲むことになった。今は東京でバリバリ仕事してるみたいだ。
そいつの実家は島にある唯一の酒蔵。それはもう歴史のある蔵だ。
小学校の頃は『かくれんぼするのに最適な涼しい小屋』としか認識していなかったが。
『うちの蔵なんとか立て直せんかのぉ。わしは今の仕事があるけぇ広島には戻れんのじゃけど。何かえぇアイデアないかのぅ。。。』
近年の若者の酒離れ、蔵人の高齢化、また東京での『ブランド酒』しか消費されない人気の集中化により酒蔵が多数閉鎖に追い込まれているのは周知の事実だ。
同級生の蔵もまさに今その危機に直面しているらしい。
『任しちょきんさい!面白いことやろうやぁ!』
反射的にそう答えていた。
僕は翌週さっそく島に渡った。

おばあちゃん。
友人の実家には事前に連絡を取り、1週間ほどその酒蔵に泊めてもらった。

島のことは浦島太郎状態なので車をお借りして興味のあるところを回りまくった。

事前リサーチの甲斐もあって、面白いことをやってる場所・人にたくさん会えた。
面白く、前衛的なことをやっている人の大半が移住者だった。
逆にずっと住んでる人は良くも悪くも変化を好まず、ただただ生きているだけのように感じた。過疎が進む地方の島にいるだけではアイデアもパワーも出てこないんだなぁと強く思った。
そんな1週間を過ごしていて一番強烈に脳に焼き付いているのは、その酒蔵のおばあちゃんだ。

『私は戦争でろくに勉強もさせてもらえんかったですけぇね。ウチの蔵で良かったら好きなことをいっぱい勉強されて行ってください。私は原子爆弾で友達や従兄弟をたくさん亡くしました。市内までは距離がありましたけぇね。私に被害はそれほど無かったんですがね。街に出ていた者はみんな亡くなりました。』
少しぼけが始まっているので、この話を毎日してくれる。毎日。毎晩。
『私のアルバム見てやってくださいませんか。』
と言って毎晩毎晩、部屋にある分厚いアルバムを何冊も見せてくれた。
そこには本物の白黒写真がたくさん挟まれている。正直、現代っ子ちゃんの僕は、資料館やテレビでしか白黒写真は目にしたことがなく、『活きている白黒写真』を実際に目にしたことはなかった。
『これが先祖ですね。こっちは私の旦那様です。旦那様は肺結核にかかってから3日で亡くなりました。代々蔵人なんですがね。昔は大人数で造りよりましたよ。この辺りも賑やかじゃったんですけどね。寂しくなってしもぉてから。。。これは女学校に駆り出された時の写真です。ほとんどの子が原子爆弾で亡くなってしもぉて…。』
これを毎晩毎晩話してくれる。
こちとら毎晩毎晩もう涙が止まらないのだ。
『せっかくいらっしゃったんじゃけぇ仏様に挨拶して行っちゃげてください。仏様も喜びますけぇ。』
と言って毎晩毎晩おばあちゃんと一緒に仏壇に手を合わせた。
この瞬間ほど心が静まりかえったことはない。
おばあちゃん。ほんまにありがとう。

おばあちゃんが描いた水墨画
あれだけ嫌いだった戦争のお話は大人になった今、かけがえのない体験となって返ってきた。
あれだけ嫌いだった地元・広島の江田島という小さな島は次の僕の戦うステージになりそうだ。
おばあちゃんが元気な間にもう一度活気のある酒蔵を。もう一度活気のある島を。新たなアルバムの1ページを。
見せてあげたい。