
【まるじ】1984〜
この下プロフィールなんですけど、正直長いです。本当に読みたい人だけ読んだらいいよ。
読むの?本当に読むの?知らないからね。
幼少期

1984年 瀬戸内海に浮かぶ広島県の江田島という小さな島に生まれる。
家の前は海。背中は山。というひたすらターザンのように走り回るしかない環境で育つ。
7歳のクリスマスに『げーむぼーいがほしいです』という願いを込めて枕元に手紙を置いたが、翌日枕元に置いてあったのは大きな箱。少年は一瞬にしてお目当の品でないことを悟るが、期待を込めて開封。中にはヘリコプターのラジコンが入っていた。
きっちり希望に応えない真っ赤な白ひげデブ野郎に少年は少しがっかりしながらも、ヘリコプターとリモコンを抱え公園へとダッシュした。説明書は読めないので操作方法は手探り。それでもなんとか飛行させる事に成功。しかし木にぶつかり激しく落下。折れたプロペラは二度と回る事はなかった。
『母さーん。サンタさんにもらったヘリコプター壊れてしもぉた。。。』
と母親に事故の報告をした。
『なぁぁぁにぃぃぃ!!?もう壊したん!?あれ高かったんじゃけぇね!』
それ以来、枕元に贈り物が届く事は無くなったし、サンタクロースは白ひげでもデブ野郎でもない事を知った。

青年期
中学時代はバスケットボール部に所属。マイケル・ジョーダンとアンファニー・ハーダウェイとスラムダンクの仙道を崇拝し、能代工業の9冠に酔いしれた。
サンタクロースとの関係をこじらせていたため、好みのバッシュを手に入れることが困難であった。
手に入れる方法としては、権力と腕力で後輩や他校の生徒をねじ伏せるという手法に出るが、具体的な方法はここでは割愛させていただく。
どうしようもない連中と、授業中にいつも通り学校中を走り回っていたら、毎晩飲みに出ていて家にもろくに帰ってこない親父が突如学校に現れ『ちゃんと授業受けんかぃ!このボケがー!!!』と激昂し僕をボッコボコにやっつけるという珍事が発生。父親は先生3人に取り押さえられ『いい加減にしてください!』と僕以上に怒らるという伝説を打ち立てる。
このやるせない思いを歌に乗せて全国のみんなに届けるためにギターを始めるも、YouTubeが普及していなかったため、僕の歌は瀬戸内海の穏やかな波にかき消された。
高校はバスケットの名門校に進もうと企んだが、僕が授業中に走り回っていたことがオトナ達は気に入らなかったらしく、名門高校の体育館で走り回るということをさせてはくれなかった。
仕方なくエリートヤンキーが集う定員割れの地元の高校に進学。入学試験はほぼ白紙で提出し見事合格。
ヤンキーさんばかりなので部活はなく、体育祭はケンカ祭りになるから中止、文化祭でのクラスの出し物は『うなぎのつかみ取りコーナー』という文化とはまるでかけ離れたとんでもない学校だった。
ある日友人が『野球の名門校の監督が赴任してきて高校に野球部を立ち上げるらしい』という情報を仕入れてきた。
友『わし野球やるけぇお前もやれ。』
ま『うん。えぇよー。』
という軽いノリで野球部に所属。
ご安心あれ。現代という時代に則さない権力と腕力による手厚いご指導を賜り、ちゃんと卒業するまでにはプロ注目の県でも名の知れた選手にまで成長した。
大学時代
もうあんなキツい練習をしなくて済む。大学まで行って野球はしたくない。と思っていた。
しかし名監督という名の鬼は、セレクションという名の超難関お受験を、コネクションという大人の事情によって大学の野球部へ僕をいとも簡単にぶち込んだ。
そして僕は、『地獄』という昔話でしか聞かない世界がこの世に存在することを知る。
1年生の頃はドラえもんよろしく押入れで生活。1年生はゴミ、2年生は奴隷、3年生は人間、4年生は神様という文明の中で生きる体躯の良い男たち。1年生の頃は寝た記憶がほとんどなく、きっちりとゴミとしての役割を果たした。
大学1年生から見た4年生は完全に巨体のおっさんだった。本当に体育会の4年生は全員もれなく強豪名門高校出身の巨体のおっさん。
のちに地獄から抜け出し一般社会と関わりを持つようになると、基本的に大学4年生は糸かと思うくらいヒョロヒョロがスタンダードだと知るのだが。
そんな化け物みたいな人たちとのレギュラー争いには初めから加わる気はない。ないはずだった。が、2年生になると気づけば試合に出ていた。出ちゃってた。今もプロ野球で活躍する桁外れで規格外の巨体のおっさん達に、僕のへなちょこボールはことごとく神宮球場のスタンドまで弾き飛ばされた。

長野(現・巨人)に満塁ホームランを打たれた瞬間のまるじ。
でも。正直それだけでもう満足だった。
大学を出たら社会人野球に進むお話も頂戴していたが、4年生の春、決意を固め、入学生でごった返す学校の人混みをかき分けて大学の窓口に向かった。
『すみません。学校辞めたいんですけど。どうしたらいいですか?』
『は?』
『すみません。学校辞めたいんですけど。どうしたらいいですか?』
『今?』
『はい。今。』
という伝説のやり取りを行い、後に『てめー調べたら野球部の特待生じゃねぇか!何やってんだ。』と呼び出され、多数のおじさんたちの説教をビシッと聞き流し、無事に僕の大学生活は幕を閉じた。
バンドマン時代

そんな僕にも捨てきれない夢があった。
あの瀬戸内海の穏やかな波にかき消された僕の歌を今度こそ全国に届けたい。
良い楽器を揃えたい。ライブするにもお金がかかる。レコーディングもしたい。
日雇い派遣バイトで様々な職業に就いた。倉庫でのピッキング作業や配送、引っ越し、施工会社やテレビの大道具さん。とにかくいろんな経験をさせてもらいながら日々違う職業に就いた。ひたすら働いた。
バンド活動も大変だが順調だった。
そんなある日、バンドのギター担当の男と打ち合わせがてら、家の近所の飲食店にご飯を食べに行った。
2階席に案内されたのだが、階段の一段一段に『バイト募集!』『バイト募集!』『バイト募集!』と貼ってあった。
こうして売れないバンドマンは飲食業界に足を突っ込んだ。
それはそれで楽しかった飲食業界と僕のこれから
そしてバンドは順調に解散を迎えた。ライブもいっぱいやったし自主制作音源も作った。ドラムがのっぴきならない理由で抜けた後、最適なドラマーが見つからず、緩やかに解散へと向かった。別にケンカ別れしたわけではない。なんなら『方向性の違いで』くらいのカッコつけた事くらい言いたかったが、単純にドラムが見つからなかった。モチベーションが保てなかった。
やるせない思いを歌に乗せて全国のみんなに届けるためにバンドを始めるも、日本のドラム人口が増加していなかったため、僕の歌は再び大都会東京の雑踏にかき消された。
僕が音楽を辞めると聞きつけて、アルバイト先の会社の上司は熱心に社員にならないかと誘ってきた。
特にやる事もなかった僕は『いいっすよー』と正社員となった。

飲食店で働く事は楽しかった。最初の店はカジュアルな鉄板焼きだったという事もあり、調理しながらお客さんと会話する。それは異業種交流会を毎日やっているような感じで、友人知人も一気に増えた。
そして僕はすぐに出世した。
それと同時に自分の技術力と知識のなさに焦りを感じていた。他のカテゴリーの調理や、お酒も扱ってみたい。と思い転職を決意。一気にまた違う知識・経験を得てまた転職。そしてまた転職。飲食業は幅広い知識を得るためには転職が必須だった。『狭く深く』か『広く浅く』か。僕は後者を選択した。そしてひたすら勉強して『広く深く』を目指した。
そして気づけば10年の月日が流れていた。海外出店の立ち上げも経験した。一生懸命働いた。いろんな人に会って、いろんなことを聞いた。
しかし体調を崩し、メンタルを病み、僕は飲食業界から身を引いた。
そして千葉の田舎に移住し、そこでWEBの勉強をはじめ、フリーランスとして生きていくことに決めた。今はWEBライターとして仕事をしている。(お仕事ください…)
1年間千葉の田舎で暮らし、様々な人に出会い、多くの人に支えられていることを実感した。
将来的には、故郷である広島県江田島市という小さな島にUターン移住し、地域活性に携わりたいと考えている。いますぐ帰っても良いのだが、帰って拠点を持つとなかなか外に出るのが難しくなる。
ならば島に変える前に「会いたい人に会いに行こう!」と思いつき、クラウドファンディングで資金を募り、車で日本一周の旅に出ることにした。
自分の大好きな日本酒を造っている酒蔵や、クラフトビールの醸造所、地域活性に力を入れて取り組んでいる場所やコミュニティなんかを見学しながら、まだ見ぬ綺麗な景色や笑顔、暮らしなどを見て回りたい。
そして僕を支えてくれた多くの友人達と、もう一度握手をかわすために。
もうね。今の時代は大都会東京が全てじゃない。もちろん田舎が全てでもない。海外が全てじゃない。広い視野を持って、柔軟に。
何かあっても助けてくれる仲間がたくさんいる。一人じゃない。
今までのこの人生を無駄にしないように。
自分のできることを最大限活かしながらこれからの人生を自分なりに謳歌したい。
そう思っています。
ほんとムダに長い駄文にお付き合い頂き、ありがとうございました。
良かったらこれからのまるじを陰ながら応援してやってください。
